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■中野区内名所・旧跡



◆ 御囲(通称犬小屋)跡(中野区中野4−8)
元禄8年(1695年)徳川五代将軍綱吉が出した「生類憐れみの令」によって野犬のため
の犬小屋が、今の中野駅を中心に28万坪の広さにわたってつくられました。昭和43年
10月、区役所庁舎落成を記念して、庁舎の正面玄関前にその由来を記した碑を建て
ました。
[交通---JR中野駅下車、徒歩2分。]




● 犬公方「徳川綱吉」と中野御囲
    五代将軍綱吉は、正保三年(1646)丙犬(ひのえいぬ)の年の正月生まれ、三代将軍家光
の第四子で、母は京都の堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門の女(むすめ)で、お玉といい
ました。徳川将軍十五人のなかで、自分の思いどおりのことをしたのは綱吉であるともいわ
れるように、気まぐれではありましたが飽きやすいというのではなく、学問にたいする態度で
も通常では考えられないほど熱心でした。しかし、いったん思いこむと変更できない一種の
偏執狂的なところがあったともいわれています。

延宝八年(1680)八月、第五代の将軍となりましたが、天和二年(1682年)に世嗣(よつぎ)の徳松を失ってから子どもができず、あらゆることをして嗣(あとつぎ)を求めようとしていました。

そんなとき、母の桂昌院がかねてから崇敬していた僧の隆光が「子どもがうまれないのは前世に生きものを多く殺したむくいである。子どもを求めようするなら生きものを愛し、殺してはならぬ。とくに将軍が嗣をほしいのなら殺生を厳禁しなくてはならぬ。」さらに「将軍は、いぬ年の生まれであるから、犬をとくに大事にするのがよい。」と進言しました。

そこで、綱吉は、犬などの生類を憐むようにという命令を出しました。
すなわち、これが世にも名高い「生類憐みの令」です。しかし、最初に命令が出されたのはいつであるかはっきりしていません。貞享二年(1685年)にはすでに出されていたといいます。始めは不仁を禁ずるという程度のようでしたが、貞享四年になってにわか厳しくなり、これからお犬様々の時代が二十数年間もつづいたのです。

貞享四年正月人宿(ひとやど)や牛馬宿などで重病の生きものを死なないうちに捨てることを厳禁するという命令がでました。人宿とは日雇人夫の口入(くちいれ=仕事の周旋)するところですから、瀕死の人を捨てたのならば厳禁も当然ですが-----。二月には食料のために魚、鳥、亀、貝類を飼養して売ることを禁じました。同月、老中から町方へ、「登録した犬が見えなくなったならばほうぼう探してたずねだすように。また、他所の犬がきたならば、大事に養っておき、主が知れしだい返してやるように」との命令が出されました。

四月には、病気の馬を荒地に捨てたため、十人の者が遠流(おんる)に処せられ、また、小石川御殿番の保泉市衛門という武士の下人が犬を斬ったので八丈島に流され、市衛門は改易となりました。犬目付という役人が町中をまわり、犬を打ったり、邪険にあつかう者を取り調べて歩きました。

飼い主のない犬に食事をやるとその家を離れないので誰れもやるものがいなくなり、町中に野犬が増え、飢えた犬は人に噛み付くようになりました。

幕府もこんな状態を放置できなくなり、元禄八年(1695年)に野犬収容のための犬小屋を四谷大木戸につくりました。その敷地は二万五千坪もありましたが、たちまちいっぱいになってしまったので、さらに大規模な犬小屋を建てることになり、その地として中野村が選ばれたのです。

今のほぼ中野駅を中心に東は公会堂通り辺まで、西は高円寺あたりまで、その広さは十六万坪もあったといいます。その中に二十五坪ずつの犬小屋が二百九十棟、七坪半ずつの日除け場が二百九十五棟、子犬養育所が四百五十九か所もあり、その中に役人の住居や付属施設がありました。それに費やした工事費は二十万両ともいわれています。犬には一日に米二合と銀弐二分とを費やしましたが、この犬小屋もすぐに満ぱいとなり、入りきれなかった野犬は、これを中野村や付近の農家に預けて飼育させました。このための費用は、三ヵ年で三万五千両もかかったそうです。

当事、中野村の犬小屋を称して、中野御用屋舗または中野御囲と称し、元禄十五年(1702年)の絵図によると一の囲まであり、その総面積は約三十万坪(九十九万平方メートル)にもおよんでいました。この犬小屋は宝永六年(1709年)家宣が六代将軍となるまでつづきました。




◆ 成願寺(中野区本町2−26−6)
多宝山と号し、本尊は釈迦如来で、聖徳太子の作と伝えられています。応永年間(1394〜
1428)に中野長者鈴木九郎が、一女の不幸をとむらう意味で、居宅を寺とし、娘の法名を
とって正観寺としたのが、今の成願寺のはじまりと云われています。天正19年(1591年)に
徳川家康により武蔵太田庄成田に五石の寺領が寄進され、寺中不入りとされ、歴代将軍
がこの寺領を安堵しています。四代将軍家綱のときから「中野村之内五石事」と記された
朱印状が下付されました。
[交通---地下鉄(丸ノ内線)中野坂上駅下車、徒歩5分。]


◆ 鈴木九郎長者の墓(成願寺内------中野区本町2−26−6)
鈴木九郎は、応永年間(1394〜1428)に紀州〜中野の里に流れつき、中野本郷を中心と
して今の新宿区角筈にまでわたる地を開拓して、中野長者と呼ばれるようになりました。
長者にまつわる伝説もいくつかあり、広く知られています。


◆ 板碑(中野区本町3−12−9福寿院)
板碑とは、秩父産の青石でつくられた供養塔で、鎌倉〜室町時代に数多くつくられました。
板碑の存在は、その周辺にこの時代の集落があったことを物語ります。このことから福寿
院のまわりは、中野を形づくった集落があったことがうかがわれます。
[交通---地下鉄(丸ノ内線)中野新橋駅下車、徒歩5分。]


◆ 宝仙寺(中野区中央2−33−3)
新義真言宗豊山派の大きな寺院で明王山聖無動院と号し、本尊の不動明王は、良弁の
作と伝えられています。 寛治年間(1087〜1093年)源義家が奥州の清原家衡を征討
(後三年の役)しての帰途、父頼義が建てた大宮八幡神社(杉並区)のそばに創建したの
に始まり、永亨元年(1429年)現在の地に移りました。江戸時代には徳川幕府の庇護を受
け、賢僧を多く輩出し、大いに栄えました。節分の日に年男達が僧兵の姿で街を練り歩く
「僧兵行列」は有名です。境内の墓地には、江戸時代の中野村の大名主・堀江家の墓が
あります。
[交通---地下鉄(丸ノ内線)中野坂上駅下車、徒歩5分。]




◆ 中野町役場跡(宝仙寺内----中野区中央2−33−3)
明治11年に郡区町村編成法が施行され、東京府東多摩郡中野村となり、連合戸長役場は戸長の居宅があてられました。明治28年に専用の役場庁舎が宝仙寺境内の玉泉寺跡につくられました。木造板ぶき、建坪48坪総2階建てでした。その後、たびたび増改築がおこなわれ、昭和11年に新しく区役所庁舎(いまの中野郵便局のところにあった)がたてられるまで、町役場、区役所庁舎として使用されました。
碑は、昭和37年10月に区制施行30周年記念として建てられました。


[中野町役場跡]


◆ 宝仙寺三重塔記念碑(中野区中央1−41−1)
寛永13年(1636年)宝仙寺の東側の御朱印地内に村民飯塚惣兵衛夫婦が施主で、三重塔が建立されました。 この塔は、江戸でも数少ないものとして信仰をあつめ、江戸周辺の名所として知られていました。大正2年春にもすべて塗りかえたりの修繕をしましたが、昭和20年5月25日の大空襲で灰となってしまいました。 塔の高さは16m、五智如来の木像が安置されていました。塔の周辺はうっそうとした森でかこまれ、戦前は塔ノ山公園として人々に親しまれていました。記念碑は昭和37年3月にたてられたものです。
[交通---地下鉄(丸ノ内線)中野坂上駅下車、徒歩2分。]


[三重塔の案内看板]
[三重塔]
[三重塔・正面図]


◆ 氷川神社(中野区東中野1−11−1)
旧中野村鎮守社。社伝によると、長元3年(1030年)源頼信が平忠常を征討したとき、武蔵大宮氷川神社の神霊を勧請し、小祠を建立したのがそもそもの起源という。また、文明9年(1477年)太田道灌が練馬・石神井の両城に豊島兄弟を攻めるとき戦勝を祈願し、がいせん後社殿を造営したと伝えられています。当社には700〜800年以前の製作といわれる狛犬が保管されており、拝殿には、勝海舟、山岡鉄舟の書の額が掲げられています。
[交通---JR東中野駅下車、徒歩5分。]


◆ 筆塚(中野区南台3−43−2 宝福寺)
明治3年(1870年)に戸村直衛という人が雑色村に「戸村塾」を開きました。翌4年の調べによると、生徒は男15人、女10人でした。この塾は、明治5年8月学制が制定されたのちも続いていました。生徒たちと使った毛筆を供養するため、筆を地中に埋めて碑をたてました。
[交通---地下鉄(丸ノ内線)方南町駅下車、徒歩10分。]


◆ 地蔵尊(中野区弥生町1−43−20)
向台地蔵尊あるいは川島子育地蔵といわれています。寛政8年(1796年)に道しるべ的な地蔵としてたてられました。
[交通---地下鉄(丸ノ内線)中野新橋駅下車、徒歩15分。]


◆ 祖師堂参詣道標(中野区本町4−30)
鍋屋横丁の一角にたっている道標です。 江戸中期以降、日蓮信仰がしだいに隆盛をきわめてきて、池上本門寺と深い関係にあった堀の内の妙法寺への人々の参詣も多くなってきました。このため、江戸市内から妙法寺への道すじに道標がたてられました。この道標もそうしたものの一つで、明治11年5月日浄上人によってたてられ、「堀の内まで十八町十間」と刻まれています。
[交通---地下鉄(丸ノ内線)新中野駅下車、徒歩1分。]


◆ 鍋屋横丁(中野区本町4−30付近)
この横丁は、お祖師様(妙法寺=杉並区)への参詣道として江戸後期ににぎわったところです。淀橋から青梅街道をまっすぐ来て左に折れるこの参詣道の角に「鍋屋」という茶屋があり、大変繁盛し、また梅屋敷としても有名であったことから、鍋屋横丁と呼ばれるようになりました。この角地に昭和54年9月由来碑が建てられました。
[交通---地下鉄(丸ノ内線)新中野駅下車、徒歩1分。]



◆ 新井薬師(中野区新井5−3−5)
新井山梅照院薬王寺と号し、新義真言宗の有名な寺です。本尊の薬師如来は坐像の金仏で50cmほどの厨子に安置されています。創始は明らかではありませんが、天正年間(1573〜1591年)に僧行春によって開基されたといわれています。ここの薬師如来は、子育薬師、治眼薬師として信仰され、江戸時代末期から門前町が形成されました。毎日8の日が縁日で屋台がならびますが、とくに30店以上にもおよぶ植木市は有名です。 また、第1の日曜日には、アンティック・フェアも開かれています。
[交通---西武新宿線新井薬師前駅下車、徒歩7分。]


◆ 新井白石の墓(中野区上高田1−2−9  高徳寺)
江戸時代の儒学者で、六代将軍家宣につかえ、数々の幕政改革をおこないました。また、洋学唱導の先駆として名高く、著書は300余種にのぼっています。享保10年(1725年)5月、69歳で没しました。高徳寺には、夫人およびその一族の墓があります。
[交通---JR東中野駅下車 徒歩10分。]




◆ 吉良上野介義央の墓(中野区上高田4−14−1万昌院功運寺)
忠臣蔵でおなじみの吉良上野介義央の墓が万昌院功運寺にあります。万昌院は、天正2年、今川義元の第三子長得が仏照円鑑禅師をまねいて開基したもので、今川家とその親族である品川家、吉良家の菩提寺となりました。ほかに義央を直ちに治療した栗崎道有、水野重郎左ェ門、歌川豊国、林芙美子、など有名人の墓があります。
[交通---JR東中野駅下車、徒歩10分。]
[交通---西武新宿線新井薬師前駅下車、徒歩10分。] 




◆ 林芙美子の墓(中野区上高田4−14−1万昌院功運寺)
作家、林芙美子の墓が万昌院功運寺にあります。万昌院は、天正2年、今川義元
の第三子長得が仏照円鑑禅師をまねいて開基したものです。
[交通---JR東中野駅下車、徒歩10分。]
[交通---西武新宿線新井薬師前駅下車、徒歩10分。] 




◆ 歌川豊国の墓(中野区上高田4−14−1万昌院功運寺)
江戸時代の浮世絵師「歌川豊国」の墓が万昌院功運寺にあります。万昌院は、天正2年、
今川義元の第三子長得が仏照円鑑禅師をまねいて開基したものです。
[交通---JR東中野駅下車、徒歩10分。]
[交通---西武新宿線新井薬師前駅下車、徒歩10分。] 


◆ 新見豊前守正興の墓(中野区上高田4−10−1  願正寺)
江戸末期の外国奉行で第1回遣米使節として、万延元年(1860年)1月、日米修好通商条約批准書交換の正使として渡米しました。
[交通---地下鉄(東西線)落合駅下車、徒歩7分。]


◆ 江古田原沼袋古戦場碑(中野区松ヶ丘2−35)
江古田、沼袋の地は、文明9年(1477年)太田道灌が豊島一族と戦った古戦場といわれています。区では、昭和31年10月開都500年を記念して碑を建てました。
[交通  バス (中野―小茂根)丸山車庫前下車  徒歩1分)


◆ 蓮華寺(中野区江古田1−6−4)
星光山蓮華寺と号し、池上本門寺の末寺。本尊は日蓮の座像で高さ90cm。高弟日朗の作といわれています。この像は日蓮自身が火防厄除、開運守像の開眼をなしたと伝えられています。本寺はもと神奈川県橘樹郡星川村にあったのを元文5年(1740年)、大岡越前守に願いでてこの地に建立したといわれています。 当寺には「お腹こもり清正公」という加藤清正の像があります。また、境内には、高さ2.97mで69,384人の婦人から1人三本ずつの生髪を頭に植え付けた生髪鬼子母神像があります。
[交通---西武新宿線新井薬師前駅下車、徒歩15分。]


◆ 哲学堂(中野区松ヶ丘1−34)
この地は、源氏の重臣和田義盛が陣屋をかまえた跡といわれ、和田山とも言い伝えられています。   哲学堂は、明治39年(1906年)に哲学者で東洋大学の創始者・井上円了が哲学、社会教育の道場として建設したものです。四聖堂(孔子、釈迦、ソクラテス、カントをまつっている。)六賢台、宇宙観など園内の施設は哲学的な名称をつけられています。 今は区立公園となっており、桜の名所としても有名なので、4月は花見客でにぎわいます。
[交通---西武新宿線新井薬師前駅下車、徒歩7分。]


◆ 野方町役場跡(中野区野方5−3−7)
〔※現在の野方地域センターの地〕
江古田村以下7か村は、明治22年4月、町村制施行の際合併して野方村となりました。そのころ、村役場は大字下沼袋にありました。その後、村長の居宅を役場としたり、清谷寺に移転したりしましたが、明治35年、ほぼ村の中央にあたるところの家屋を買収して村役場としました。昭和7年に中野区の成立により廃止されました。
[交通---西武新宿線野方駅下車、徒歩3分。]


◆ 徳川将軍御膳所跡(中野区江古田3−9−15 東福寺)
三代将軍徳川家光が、江戸周辺へ狩猟に出向いたことは有名で、江戸西郊のこの地にもよく出かけ、東福寺にも立ち寄ったともいわれています。八代将軍吉宗も、鷹狩りによく出かけました。当時この地方は鷹場の道筋にあったため、東福寺が御膳所に指定され、立ち寄り休息したことが文献にも記録されています。昭和42年、東福寺本堂改築落成記念の際に、石碑が建てられました。
[交通---バス(中野駅―小茂根) 江古田三丁目下車,徒歩1分。]


◆ 氷川神社(中野区江古田3−13−6)
江古田一円の鎮守社で、創建年代はわかりませんが、相当古いものです。この神社では、氏子が氏神を祭る行事として「獅子舞」が奉じられてきました。  この獅子舞は、鎌倉時代に始められたといわれ、氏子の幸福を、守るために伝えられました。素朴古雅で田楽舞の正しい演舞法を今日に伝えている郷土芸能として珍しいものです。毎年10月第1日曜日に獅子舞が行われます。
[交通---西武新宿線沼袋駅下車、徒歩15分。]


◆ 十三仏の板碑(中野区沼袋3−21−7  清谷寺)
応永6年(1399年)の銘があり、梵字で十三仏が刻まれている珍しい板碑です。この時代にこの地方一帯を大飢饉が襲い、多くの村人が餓死したのを供養した碑といわれています。
[交通---西武新宿線沼袋駅下車、徒歩10分。]


◆ 百観音(中野区沼袋2−28−20  明治寺)
西国・坂東・秩父の霊場百ヶ所の観音様を模した霊像が安置されています。これは、寺の創立者、草野栄照尼が明治天皇の病気快復記念のため寄進を仰いだものです。隣接する百観音児童遊園内には、"日本のペスタロッチ"といわれた黒田定治の記念碑があります。
[交通---西武新宿線沼袋駅下車、徒歩5分。]


◆ 育英地蔵尊(中野区大和町2−42−3八幡神社入口)
延享3年(1746年)の造立。村人の子が大病になったとき、夢の中に地蔵尊が現われて祈願すれば治ると告げられ、この地蔵尊を参詣したところ病いが治ったと伝えられています。また、堂宇の中には、元禄と宝暦の庚申塔も二体安置されています。
[交通---バス(中野駅―野方駅) 八幡前下車  徒歩5分。]


◆ 山荘の碑(中野区大和町4−37−15  蓮華寺)
江戸時代は厳しいキリシタン禁制がしかれていました。この山荘之碑は、小説や講談で知られる遊女朝妻の殉教の碑です。 この碑は、のちにこれを伝えきいた讃岐守大江政時が、間宮士信にこの哀話の撰文を命じ、文化12年(1815年)5月に碑をたてました。碑は1.2mの高さで、裏にいわれが記されています。明治の末に蓮華寺が現在の地移ってきた時、この碑も一緒に運ばれてきました。
[交通---JR高円寺北口駅より  バス(新宿西口―阿佐ヶ谷車庫)お伊勢の森下車 徒歩1分。]


◆ 北向地蔵(中野区上鷺宮1−2−13)
子連れ願かけ地蔵ともいわれ、大小二体の地蔵尊です。大きい地蔵尊には正徳5年(1715年)の銘があります。この地蔵尊に祈願する人は、小さい方の地蔵尊をたおして祈願すると願いごとがかなえられると言う、言い伝えがあります。
[交通---西武新宿線鷺宮駅下車、徒歩7分。]


◆ 八幡神社(中野区白鷺1−31−10)
旧鷺宮一円の鎮守社。口碑によると創建は文亀・永正年間(1501〜1520年)、江戸時代には幕府より朱印領として七石余りを給せられていました。かつては、境内に老樹が林立し、たくさんのサギが群棲していたので、村民たちはサギの森とか、サギの宮とか呼んでいました。鷺宮の地名はこれに由来しているといわれます。
[交通---西武新宿線鷺宮駅下車、徒歩3分。]



〔史料=中野区立歴史民俗資料館「中野の名所・旧跡」による〕
〔史料=中野区教育委員会・中野文化センター郷土史料室「なかのものがたり」による〕




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