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「岡本太郎」作家略歴



1911年  (明治44年)  2月26日、母の実家である神奈川県橘樹郡高津村二子/現在の 川崎市高津区
             二子に生まれる。 母は作家の岡本かの子(1889〜1939)は歌人、小説家である。父は
             漫画家の岡本一平(1886〜1948)。生涯独身を通したが、秘書であった岡本敏子(故人)
             を養女にした。敏子は太郎没後、多くの著作を通して太郎の再評価に貢献した。
 
1917年 (大正6年)6歳 4月東京・青山の青南小学杖に入学するが、1学期で退学。 日本橋通旅寵町
            にある私塾・日新学校、小伝馬町の十忠小学絞を転々とし寄宿合生活を送るが教師の態度
            に馴染めず退学。翌年、慶応幼稚舎に入学。
 
1918年 2回の転校ののち、東京・渋谷の慶応幼稚舎に入学。
 
1925年(大正14年)14歳、野口富士夫ら同級生と謄写版で同人誌を発行し、春のボートレース対抗試合
           に負けた悔しさを表現した、水彩による《敗惨の歎き》を制作。
 
1929年 慶應義塾普通部を卒業、東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科入学、半年後中退。
           12月5日父・一平のロンドン軍縮会議の取材旅行に同行するため渡欧、一家で箱根丸にて神戸
           港を出発。その後、ソルボンヌ大学哲学科で哲学・心理学・民俗学を学ぶ。
 
1930年(昭和5年)19歳、1月13日マルセイユを経由してパリに到着。 一平かの子は取材の為、
           ロンドンに向かい、太郎は1人パリに残る。ルーブル美術館でセザンヌの絵画にふれ、感激する。
           8月ロンドンのハムステッド・ヒースの両親のもとで夏休みを過ごす。
           9月モンパルナスにアトリエを構える。
           10月オランダ、ベルギーを旅行し、ゴッホの 《馬鈴薯を喰う人たち》 に感動する。
 
1931年(昭和6年)20歳、3月パリ郊外にあるセーヌ県ショアジー・ル・ロアのリセ 「パンシオン・フランショ」
           (私立学校寄宿舎)でフランス人と寝食を共にし、フランスの一般的文化教養を身につける。
           9月パリ大学ソルボンヌ校 哲学科の聴講生となる。ヴィクトール・バッシュ教授の「ヘーゲル美学」
           の講座を受講し、講義で展開されたカントの純粋理性批判に傾倒する。
 
1932年(昭和7年)21歳、1月両親は帰国の途につく。夏、ラ・ポエツシー街のポール・ローザンベール
           画廊にて、ピカソの作品《水差しと果物鉢》(1931年)に感動を受ける。 これを契機に抽象芸術の
           道に進む決意をする。
           10月サロン・デ・シュールアンデパンダン展に出品した作作品が、ラントランシジャン紙で批評家
           モーリス・レイナルによる賞賛を受ける。
 
1933年(昭和8年)22歳、最年少で参加した非具象芸術グループ 「アプストラクシォン・クレアシオン」
           (抽象・創造協会)が開いた展覧会に出品。
           会のメンバーであるジャン・アルプ、ロベール・ドローネらと交友を結ぶ。
 
1934年(昭和9年)23歳、10月頃サロン・デ・シュール・アンデパンダン展に《空間》を出品。
 
1936年(昭和11年)25歳、1月グルニエ・デ・ゾーギュスタンで「コントル・アタック」(反撃)の最初の
           公開集会にマックス・エルンストに連れられて参加。ジョルジュ・バタイユの演説に感銘をうける。
           10月「アプストラクシォン・クレアシオン」のメンバーであるクルト・セリグマン等と「ネオ・コンク
           レティスム」(新具体主義)を提唱し、手に届く実感のあるものを追求する。
 
1937年(昭和12年)26歳、6月パリの出版社G.L.M.より初めての画集『OKAMOTO』が刊行される。
           サロン・デ・シュール・アンデパンダン展に《傷ましき腕》を出品。「アプストラクシォン・クレアシオン」
           を脱退。
 
1938年(昭和13年)27歳1月「国際シュールレアリスム・パリ」に《傷ましき腕》を出品。
           アンドレ・ブルトンらシュールレアリストらとの親交が深まる。パリ大学でマルセル・モースに師事し
           民族学を学ぶ。
           7月バタイユからの推薦により、秘密結社「アセファル」(無頭人)に参加する。
 
1939年(昭和14年)28歳、2月18日 母、かの子死去(享年49歳)。
           9月1日ドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦の勃発。
 
1940年 (昭和15年)29歳, 6月 ドイツ軍によるフランス侵攻により、パリ陥落に伴い帰国。最後の引揚船・
           白山丸で帰路につく。8月帰国後、日本の伝統文化を自分の目で確かめるために、奈良、京都
           へ旅行。
 
1941年(昭和16年)30歳、9月第28回二科展に滞欧作品《傷ましき腕》《リボンを結んだ女》《コントル
           ポアンの4点を特別出品し、二科賞を受賞。11月 銀座三越で個展を開催。《空間1》《空間2》《雲》
           《コント ルポアン》《リボン幻想》《リボン》《リボンを結んだ女》《机のある静物》《作家》《ブーチック・
           フオレーンヌ《露店》《少女》《花と人》《花の悲劇》《傷ましさ腕》を出品。
 
1942年(昭和17年)31歳、召集。二等兵として中国の前線に出征、軍隊生活を送る。
 
1946年(昭和21年)35歳、 6月一年間の中国・洞庭湖近くの収容所生活を経て復員。 戦火により、青山の
           自宅にあった作品のすべてを焼失したことを知る。父 一平の疎開先である岐阜県加茂郡西白河を
           訪ね再会する。
           鎌倉の川端康成宅、母 かの子の実家などを転々とする。復員、東京都世田谷区上野毛にアトリエ
           を構える。
 
1947年(昭和22年)36歳、4月二科会員に推挙される。東京上野毛にアトリエを構える。
           この頃より自らの芸術理念の核として「対極主義」を提唱。 後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会う。
 
1948年 (昭和23年)37歳1月花田清輝らと文学者を中心に「夜の会」を結成し、前衛芸術運動を開始。
           7月文化学院で開かれた「モダン・アート夏期講習会」(日本アヴァンギャルド美術クラブ主催)で講帥
           を担当。若い世代に大きな影響を与える。8月花田清輝と共に、自然消滅した 「夜の会」 代わって
           美術家を中心とした「アヴアンギャルド芸術研究会」を発足させる。
            10月11日父,一平 死去(享年62歳)。
           花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」結成
 
1949年(昭和24年)38歳2〜3月読売新聞主催台回日本アンデパンダン展に《赤い兎》を出品。
            9月第34回ニ科展に《重工業》を出品。
 
1950年(昭和25年)39歳1月読売新聞社主催の「現代美術自選代表作十五人」展に昨年再制作した
            《傷ましき腕》《露店》等を出品。
            2月 第2回日本アンデパンダン展に《堕天使》を出品。 開会日に東京美術館の食堂で「対極主義宣言」
            を読み上げて、対極主義協会の結成を呼びかけるが賛同を得られず流会。
            9月 第35回ニ科展に《森の掟》を出品。
 
1951年(昭和26年)40歳 11月 戦後作品を集めた「岡本太郎」展が日本橋・三越で開催される。
 
1952年(昭和27年)41歳 2月東京国立博物館で見た縄文土器に感じた衛撃を、「四次元との対話−縄文土器論」
            として『みづゑ』に発表。
            第4回日本アンデパンダン展にモザイクタイルによる壁画の第1作《太陽の神話》を出品。
            5月パリでの「サロン・ド・メ」展に《夜明け》《堕天使》を出品。
            10月地下鉄日本橋駅にモザイクタイル壁画《創生》を制作。
            陶器を使った初めての作品《顔》を制作。
            11月 翌年にかけてヨーロッパを再訪し、旧友に会う。
 
1953年(昭和28年)42歳 1−2月 パリ・クルーズ画廊で個展を開催。
            南仏・ヴァロリスのピカソの陶房を訪ねる。
            7月日本のアヴァンギャルド芸術家約5O人と 瀧口修造、植松鷹千代、徳大寺公英、瀬木真一、
            針生一郎ら批評家が加わって国際アート・クラブ日本本部が結成され、その代表に選ばれる。
            9月 ニューヨーク・ヒューゴー画廊で個展。
            日l本橋・高島屋のショウウインドー8面を構成。
            第2回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表(17人中の1人)として出品。
 
1954年(昭和29年)43歳
            6月第27回 ヴェネチア・ビェンナーレに、日本代表として坂本繁二郎と太郎が選出される。
            8月光文社より『今日の芸術一時代を創造するものは誰か』が刊行され、ベストセラーになる。
            10月アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立、『今日の芸術』初版刊行。
            ワシントン・インターナショナルハウスで個展を開催。多摩墓地にある・平の墓碑に《顔》を設置。
 
1955年(昭和30年)44歳
            8月1日 土岡秀太郎の招きで第7回北美定期美術講習会の講帥をつとめる。
            ヘリコプターで東京銀座の夜空に光で絵を描く。
            第2回「毎日国際」展(毎日新聞社)に《燃える人》を出品。
 
1956年(昭和31年)45歳
            1月 SF映画「宇宙人東京に現わる」(島耕作監督)の宇宙人等のデザインも含めた色彩指導
            をつとめる。
            9月松竹セントラル劇場(中央区築地)1階ロビーにモザイク壁画《青春》を制作。
            10月 旧東京都庁舎(丹下健三設計)に「日の壁」「月の壁」など11の陶板レリーフを制作。
            11月 「世界・今日の美術」展を企画し、フランスからアンフォルメルの作家を多数紹介。
 
1957年(昭和32年)46歳
            4−12月「芸術風土記」を芸術新潮に発表し、日本各地を精力的に取材する。
            アンフォルメルの画家ジョルジュ・マチューの公開制作のために、アトリエの庭を提供する。
            7〜11月 第11回ミラノ・トリエンナーレに陶板画《陽》を出品。
 
1958年(昭和33年 47歳
            4月 国鉄神田駅地下道に三面のモザイク・タイル壁画《駆ける》《遊ぶ》《花ひらく》を制作。
 
1959年(昭和34年)48歳
            「火の芸術の会」 に参加し、陶器を作る。東京国立競技場での野外オペラ 「ローエングリン」
            (武智鉄演出)の美術を担当。
            11月 沖縄に旅行し、「御獄−うたき」 に感動する。
            12月 長野県戸倉のスポーツランドにモニュメント《動物》を制作。 これより彫刻にも本格的
            に取り組み始める。
 
1960年(昭和35年)49歳
            6月銀座松屋中央ホールの空間構成として《真夏の夢》を制作。
 
1961年 (昭和36年)50歳
            1月中央公論社より『忘れられた日本〈沖縄文化論〉』を山版。毎日出版文化賞を受ける。
            6月東京宝塚劇場・東宝劇団歌舞伎旗揚げ公演「寿二人三番叟」の美術を担当。
            8月二科会を脱退
            11月カルピス相模原工場にモザイク・タイル壁画《初恋》を制作。
 
1962年(昭和37年)51歳
            4月東京・後楽園ボウリングセンターに、モザイク・タイル壁画《赤》《青》の2面を制作。
            11月川崎市二子の多摩川湖畔に岡本かの子文学碑《誇り》を制作。
            12月東京池袋駅前広場にアルミ製クリスマス・モニュメント《メリー・ポール》を制作。
 
1963年(昭和38年)52歳
            2〜3月フランス、イタリア、アメリカ、メキシコを旅行。
            4月東京国際見本市においてシチズン時計のディスプレイをし、また時計を組み込んだ 
            《涙のペンダント》を試作。
            7月アントニオ・レイモンドと協力してディブス氏邸(東京・渋谷)に、彫刻と壁画による浴室
           を構成。
            12月東京・也袋駅前広場に東京オリンピック記念の《ヴィクトリー・ポール》を制作。
 
1964年(昭和39年)53歳
            1月東京・池袋百貨店と銀座・東京画廊で個展を開催(会場構成は磯崎 新)。 
            その後、名古屋、川崎、仙台、福岡など各地を巡回。
            8月東京オリンピックの参加記念メダルを制作。
            9月東京サンケイホールでのアキコ・カンダ・モダンバレーの舞台装置を制作。
            10月国立代々木競技場(丹下 健三設計)に陶板レリーフとモザイクによる壁画を制作。
            11月韓国に取材旅行に出かける。
 
1965年 昭和40年)54歳
            4月伊豆・堂ヶ島ホテルの玄関とロビーに陶板壁画を制作。
            8月銀座・東京画廊にて「鐘と炎」展を開催。
             10月名古屋・久国寺に梵鐘《歓喜》を制作。
 
1966年(昭和41年)55歳
            1月旧正月行事取材のために香港、マカオを旅行。
            7月伊豆急富士見ランドに陶板レリーフとガラス・モザイクによる壁画《太陽誕生》
             と《太陽の鐘》を制作。
              9月個展を開催。(金沢、富山、福井、新潟などを巡回)
            11月銀座数寄屋橋公園に《若い時計台》を制作。
            12月沖縄を再訪し、イザイホーの神事を取材。
 
1967年 (昭和42年)56歳
            5月 山形県寒河江市役所市民ホールに《光る彫刻・生誕》を制作。
            6月日本万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。
            7〜9月中南米に旅行し、テレビ映画 「岡本太郎の探る中南米大陸」 に出演。
            9〜11月個展を開催。 (横浜、三重、甲府、水戸などを巡回)
 
1968年(昭和I43年)57歳
            2月メキシコの大型ホテル、オテル・デ・メヒコの壁画《明日の神話》制作のために、
            現地にアトリエを購える。
            6月銀座・松屋で「太郎爆発」展 が開催される。
            9月東京・山王のマミ会館を設計。
            12月 銀座の日本軽金属ビル1階ホール・アルミ美術館に《愛の部屋》を構成。
 
1969年(昭和44年)58歳
            4月日本橋・三越で創作デザインによる「シャギー・カーペット」展が開かれる。
            犬山ラインパークにシンボルタワー《若い太陽の塔》を制作。
            8月別府駅前サンドラッグ・ビル外壁に陶板レリーフ《緑の太陽》を制作。
            12月銀座の日本軽金属ビル1階ホール・アルミ美術館に《仮面の祭り》を構成。
 
1970年(昭和45年)59歳
            3月 大阪の日本万国博覧会シンボルゾーン中央に《太陽の塔》《母の塔》《青春の塔》
            を含むテーマ館完成。テーマ館館長をつとめる。
            7〜9月 「TARO爆発」展 がパリ、アルジェ、チュニスを巡回。
            12月 銀座の日本軽金属ビル1階ホール・アルミ美術館に《花びらの座》を構成。
           
 
1971年(昭和46年)60歳
            2月 日商岩井音羽マンションのインテリア構成を行なう。
            7月パリ、フォーブル・サントノーレの芸術祭「街の美術館」に彫刻《樹人》を出品し、祭の王様
            に選ばれる。11月名古屋にあるオリエンタル中村百貨店正面外壁に光る大壁画を制作。
            名古屋駅地下鉄エスカにシンボルゾーン《幻想の広場》を構成。
 
1972年(昭和47年)61歳
            2月札幌オリンピック記念メダル制作。
            3月山陽新幹線開通にあわせ、新幹線岡山駅に陶板壁画《躍進》を制作。
            4月東京後楽園ボウリングセンターに、モザイク・タイル壁画2面を制作。
            5月ミュンヘン・オリンピック公式参加メダル制作。ミュンヘン市ハウス・デル・クンスト
            での「シュールリアリスム」展に《傷ましき腕》を出品。(同展はパリ装飾美術館へ巡回)。
 
1973年(昭和48年)62歳
            7月 ぜんちょう56mの飛行船に絵を描く。
            8−10月 金沢市で開催の「日本海博」を監修、記念メダルを制作。
            9月毎日新聞社主催の国際交通シンポジウムに建築家フーラー、社会学者ルベルとともに
           記念講演。
 
1974年(昭和49年)61歳
            2月パリ国際センター落成式に招聘されて出席。
            3月 パリで版画集『アプストラクシオン・クレアシオン・ノンフィギュラティーフ 1932-36』
            が刊行され、アルプ、カンディンスキー、モンドリアン等30人の代表作家の一人に選ばれる。
            NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画《天に舞う》を制作。
            8月きものの柄をデザインし、《TAROきもの》として発売される。
            9月姫路郊外夢前のニュータウン中央広場に噴水のモニュメント《若い泉》を制作。
            12月 信州・野沢温泉にシュナイダー記念碑を制作。
            ロンドンのフランクリン・ミント社より銀製の飾額《人間と太陽》が以降数年に
            わたり連作として山される。
 
1975年(昭和50年)64歳
            1月大阪・千里の万博記念公園に《太陽の塔》の永久保存が決まる。
            7月パリ大学民族学教授ジャン・ルーシュの撮影による「岡本太郎−マルセル・モースの肖像」
            に出演。 イタリア・アゾロの映画祭で芸術家の伝記大賞を受賞。
            10月 パリ国際センターに《太陽と月》《いこい》《めざめ》《風》《赤》の5杖のレリーフを制作。
 
1976年(昭和51年)65歳
            1月パリ・セゲール社より『美の呪力』の仏訳が刊行される。
            2月山形県の観光スキー映画「山形は白い国、岡本太郎のスキー」 に出演。
            3月ロバート・ブラウン発売2周年を記念して、キリン・シーグラム社より《顔のグラス》 
            が発売される。
            4〜5月パリ市立ガリエラ美術館において「TARO・OKAMOTO RETROSPECTIVE」展が開催される。 
            これを、記念して画版集と画集がエディシオン・ド・ラ・ディフエランス祉パリより出版される。
            6月大塚製薬徳島研究所の建物外壁に《いのち踊る》を制作。
            8月京都じゅらくより、振袖などのデザインを依頼され制作。
 
1977年(昭和52年)66歳
            1月 三郷陶器よりモーニング・セット《夢の鳥》を発売。
            7〜12月 スペイン国立版画院に日本人で初めて鋼版画が収蔵される。
            12月 ベルギーで製作した創作デザイン・トランプが講談社より発売。
 
1978年 (昭和53年)67歳
            5月日本で開催される国際眼科学会のシンボル・マークを制作。 
            同デサインによる記念切手と記念メダルが発売される。
            9月 バリ・マジョルカ島を経てバルセロナにガウデイの建築を見に行く。 
            (テレビ番組 「もう一つの旅」に収録される。)
            10月 福山市・はきもの博物館の中庭に《足あと広場》を制作。
 
1979年 (昭和54年)68歳
            1月『週間プレイボーイ』に『人生相談・にらめっこ問答』の連載を始める。
            2月 札幌雪まつり30周年を記念するシンボル大雪像《雪の女神》を制作。
            9月『岡本太郎著作集』(全9巻)が翌年にかけて刊行される。
            10〜11月西宮市大谷記念美術館にて「現代の神話−岡本太郎展」が開催される。
 
1980年(昭和54年)69歳
            2月新宿・小田急線グランドギャラリーで「挑む−岡本太郎展」が開催される。
             新宿西口広場において絵画文字《挑む》の一時間の公開制作を行う。
            4月京都外語大学国際交流会館に陶板レリーフ壁画《眼と眼−コミュニケーション》を制作。
            11月 東京国立近代美術館に暴漢があらわれ、《コントルポアン》が傷つけられる。
 
1981年(昭和55年)70歳
            3月 原色豊かな《鯉のぼり》が発売される。
            5月 姫路市・総合スポーツ会館正面にモニュメント《躍動》を制作。
            7〜9月山梨県立美術館にて「岡本太郎」展 が開催される。
            11月 画集『学ぶ字』が日本芸術出版社より刊行される。
            テレビCMに出演。「芸術は爆発だ!」が流行語となる。
 
1982年(昭和56年)71歳
            3月島根県国民体育大会(くにびき国体)メイン競技場に、シンボルモニュメント《神話》を制作。
            7月 青森県古牧温泉祭魚洞公園に日本かっぱ祭りのシンボル《かっぱ神像》 を制作。
            12月オリジナルテザインのテレホンカードとして《遊ぶシリーズ》の《喜》《楽》《音》《話》の
            4点がNTTより発売される。
 
1984年(昭和58年)73歳
            4月フランス香水フェアシンボル《香りの塔》を原宿・ラフォーレ前に展示。
            10月 鹿沼市市民分化センター正面にシンボルモニュメント《夢の樹》を制作。
            12月フランス政府より芸術文化勲章(Officier de l'ordre de merite) を受ける。
1985年(昭和60年)74歳
            3月筑波科学博にシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。
            9月 横浜そごう屋上太陽のひろばにシンボル・モニュメント《太陽》を制作。
            11月青山・こどもの城にシンボルモニュメント《こどもの樹》を制作。
            12月イギリス・オックスフォード近代美術館における「日本の前衛美術」展に《森の掟》
             《重工業》を出品。
 
1986年 (昭和61年)75歳
            4月この月より日本テレビ「テレモンジアャ」にレギュラー出演。「なんだこれは」が流行語
            になる。
            12月 パリ・ホンピドゥーセンターで翌年2月にかけて「前衛の日本・1960-1986」展が開催され、
            《傷ましき腕》《憂愁》《森の掟》を出品。フランス政府造幣局の依頼で《太陽と月》のメダルを制作。
 
1987年(昭和62年)76歳
            3月 さよなら国鉄・新生JRメダル《山発》を制作。
            4〜5月 NHK制作のテレビドラマ「ばら色の人生」に出演。
            4月 三沢市古牧温泉、古牧第三グランドホテルに《瑞鳥》《天平瑞雲》を制作。
 
1988年(昭和63年)77歳
            4月岐阜未来博シンボルモニュメント《未来を拓く》を制作。
            4月 高知市市制100年を記念するシンボルキャラクター《自由な私》のデザインを発表。
            9月ダスキンのフリーデザインマットのCMに出演。
            10月船橋市わんばく王国公園にモニュメントモニュメント《平和を呼ぶ》を制作。
 
1989年(平成元年)78歳
            7月フランス政府よりフランス芸術文化勲章(Grade d'officier dans l'ordre des arts de lettre)
            を受賞。10月 福井県宮崎村村制100年を記念し、越前陶芸村公園に《月の顔》を制作。
 
1990年(平成2年)79歳
            8月 岩手県藤沢市の縄文野焼祭・縄文サミットに参加。シンボルとして《縄文人》を展示。
            10〜11月 名古屋市美術館における「日本のシュールレアリスム」展に《傷ましき腕》を出品。
 
1991年(平成3年)80歳
            4〜6月川崎市民ミュージアムにて「川崎が生んだ鬼オ−岡本太郎」展が開催される。
            5月 東京都庁の新宿移転により、56年に制作した壁画が保存連動の甲斐なく取り壊される。
            11〜12月 一二指腸潰瘍で慶応病院に入院。
            12月 川崎市に主要作品を寄贈。
 
1993年(平成5年)82歳
            4月浦和市舞浜の公園正面に《躍動の門》、モニュメント《五大陸》を制作。
            4〜7月川崎市民ミュージアムにて「TARO万華鏡−岡本太郎の華麗なる創造世界」展が開催される。
            川崎市名誉市民となる。
 
1995年(平成7年)84歳
            8月川崎市とどろきアリーナに6面のレリーフ壁画を制作。
            11月 広島市現代美術館にて翌年1月まで「岡本太郎」展 が開催される。
 
1996年(平成8年)85歳
            1月7日 急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院にて死去。(享年84歳)。/TD>
            死後
 
1999年 神奈川県川崎市多摩区の生田緑地内に川崎市岡本太郎美術館開館。
 
2005年 養女・岡本敏子死去(79歳)。
 
2006年7月7日 大作の壁画「明日の神話」が汐留日テレプラザにて初公開される。
            これを期に岡本太郎ブームが再燃する(Be TAROと呼んでいる)。


《外部リンク》

◆ 川崎市岡本太郎美術館
◆ 岡本太郎記念館
◆ 第2日本テレビ - 爆発屋 岡本太郎大博覧
◆ ほぼ日刊イトイ新聞 - なんだ、これは!
◆ 「明日の神話」再生プロジェクト




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