「トップページ」に戻る
「前のページ」に戻る
ネット上のよくある質問
プライバシー保護
会員入会案内
メールマガジン購読案内


「北村西望」作家略歴

1884 明治17年  12月16日、父・陳連(のぶつら)、母・サイの四男として、長崎県
               南高来郡南有馬村白木野字宮野木場に西望(にしも)生まれる。 

1892 明治25年  白木野尋常小学校に入学(四年制)。 

1896 明治29年  有馬尋常高等小学校に入学。 

1900 明治33年  有馬尋常高等小学校を卒業。12月小学校準教員免許取得。南有馬尋常
               小学校3ヶ月臨時勤務。
 

1901 明治34年  4月、母校白木野小学校に勤務。代用及準訓導 月給6円。 

1902 明治35年  正教員となるため教職を辞し、長崎師範学校に入学。風土病にかかり
               長期欠席し、師範学校を退学となる。このころ父の隠居所の欄間を
               彫りに取り組む。
               年末から再び有馬尋常小学校の教壇に立つ。天満神社神主に京都美術学
               での勉強を進められる。 

1903 明治36年  京都市立美術工芸学校彫刻科入学(補欠)。
               彫刻とは木を彫ることぐらいしか頭にないまま彫刻家への志を立てる。
               入学後生涯の最愛の友であり、ライバルである建畠大夢と出会う。 

1907 明治40年  4月、同学校卒業・東京美術学校彫刻科(現東京芸大)入学(補欠)。 

1912 明治45年  同学校(現東京芸大)を主席で卒業。12月口之津で徴兵検査を受け甲種合格、久留米工兵
               第18大隊に入隊。 

1914 大正 3年  2月、郷里にて、島原市の板倉春野(21歳)と結婚式を挙げ東京へ戻る。

               6月、非常召集令状により、妻春野を島原に帰し、久留米の工兵大隊に入隊。 

1915 大正 4年  西望の長男「治禧」(はるよし)誕生。第9回文展に「怒涛」を出品、最高賞
              (二等賞)をうける。
               西望の父裏山に紫色の雲がたあがり、たなびいた。その後裏山にその現象の
               ことを刻み山を金雲山と名づける。 

1916 大正 5年  第10回文展に「晩鐘」を出品、特選主席をうける。建畠大夢・池田勇八・
               国方林三ら4名で研究会「八手会」(やつで)を作る。滝野川上中里に移転した。 

1917 大正 6年 「光にうたれる悪魔」が第11回文展推薦となる。文展常連出品者から文展
               作家となる。
               このころ、千々石村より橘中佐像の依頼をうける。 

1918 大正 7年  第12回文展に筋肉質の動的な表現が多い作品傾向のうちで例外である
              「将軍の孫」も出展。 

1919 大正 8年  第1回帝国美術院美術展覧会彫刻部審査員となる。以後歴任。 

1920 大正 9年  森鴎外より寺内元帥騎馬像の制作を依頼される。
 
1921 大正10年  東京美術学校教授に任命される。

               12月、「昿原社」という研究団体を発足させた。(運営1年余りで解散となる)
               千々石村に橘中佐像建てられる。(昭和29年復活建立) 

1923 大正12年  5月、寺内元帥騎馬像完成。東京の三宅坂に設置される。
               (昭和18年の銅像供出で撤去され鋳潰される) 

1925 大正14年  帝国美術院会員となる。 

1927 昭和 2年   陸軍省から山県有朋元帥騎馬像の制作依頼をうける。
 
1930 昭和 5年  山県有朋元帥像が完成し、霞ヶ関の陸軍大臣官邸に置かれる。
              (戦時中の供出を逃れ上野に移され、現在は井の頭彫刻園に置いてある) 

1931 昭和 6年  母校京都市立美術工芸学校で教壇にたつ。 

1937 昭和12年  秩父鉄道初代社長の柿原万蔵氏の銅像製作。 

1938 昭和13年  2月、「板倉退助翁」像完成・国会議事堂内に設置。
               児玉源太郎大将騎馬像完成し、満州の新京児玉公園に設置される。 

1941 昭和16年  宮内省からの依頼で閑院宮騎馬像のひな形ブロンズのみで完成できなかった。
               殿下西ヶ原のアトリエに来られた。その時、兄総族・姉ミホ上京する。 

1942 昭和17年  共に彫刻の道を歩き最愛の友であり、ライバルであった建畠大夢が永眠。 

1944 昭和19年  朝倉文夫とともに銅像救出委員会を組織。銅像供出の阻止運動を行う。
               東京美術学校を退職・従三位勲四等をうける。 

1945 昭和20年  3月、矢那瀬村に疎開(3年間)。この疎開中、必要に迫られ新しい技法石膏
               直付け法を思いつく。
 
1948 昭和23年  長男・治禧(はるよし)、柿原万蔵の孫の娘と結婚。東京に引き上げる。 

1950 昭和25年  秋、長崎市から平和祈念像の建設の相談をうける。 

1951 昭和26年  祈念像の案を提出。長崎市より正式に依頼をうけ、着手する。 

1953 昭和28年  井の頭自然文化園の土地を東京都から借り、アトリエを建設、そのアトリエ
               に移る。 

1955 昭和30年  長崎平和祈念像完成。8月8日除幕式。 

1958 昭和33年  文化勲章・文化功労賞受賞。 

1962 昭和37年  武蔵野市名誉市民となる。 

1965 昭和40年  日本芸術院第一部長となる。 

1968 昭和43年  第16回彫塑展覧会に「笑う少女」(昭和1年作)出品

1969 昭和44年  社団法人日展会長となる。紺綬褒章を授与される。 

1972 昭和47年  長崎県島原城に「西望記念館」完成。島原市名誉市民。 

1973 昭和48年  原城本丸に「天草四郎像」設置。 

1974 昭和49年  社団法人日展名誉会長となる。 

1976 昭和51年  新宮殿に「天馬」を献納。 

1979 昭和54年  南有馬町名誉町民となる。西望公園完成・記念館オープン。 

1980 昭和55年  東京都名誉都民・長崎県名誉県民となる。 

1981 昭和56年  東京都北区名誉区民となる。 

1983 昭和58年  百寿を迎える。 

1985 昭和60年  西望公園・記念館復元工事完成。 

1987 昭和62年  3月4日、104才にて永眠。




「前のページ」に戻る